映画がもたらす最も強力な経験の一つは、「予測できない結末」が投げかける衝撃波だ。すべてがひっくり返ったり、最も暗いアイロニーに直面する瞬間に降りかかる雷のような感情の波動である。数多くの映画が予測可能なエンディングを選ぶ中、ある作品は大胆に常識を打ち破り、観客の脳裏にパンチを打ち込む残酷な句点を打つ。紹介する7本の映画は、平凡な結末を拒否するエンディングを通じて観客の世界観を根底から揺るがす作品である。
1. 『ミスト』(フランク・ダラボン監督)

スティーヴン・キングの同名小説を原作としたこの映画は、ジャンル映画のクリシェを打破することに成功した。その代償として観客は極限の精神的な苦痛を味わわなければならなかった。正体不明の霧が町を覆い、その霧の中から飛び出した怪生物たちにより、スーパーマーケットに閉じ込められた人々が死闘を繰り広げる。宗教的な狂信者たちの登場により人間内部の葛藤が深まる中、生存者グループのリーダー、デイビッド(トーマス・ジェーン扮)は息子を含む一行を救うため、霧の中へ車を走らせ脱出を試みる。燃料が尽きると、これ以上の希望はないと判断したデイビッドは、一行の苦痛なき死のために自らの拳銃で全員を射殺するが、最後の一発が自分を撃つことができず、絶望的な状況に陥る。その瞬間、霧が晴れ、軍隊が現れる。デイビッドが最後の一発の弾を自分に使えなかった決断は、人類の救済であり、自らの決断がもたらした極端なアイロニーであった。彼は自分を含む全員を救うための「5分」を耐えられず、最も愛する者たちを自らの手で殺したという、想像を絶する悲劇的な結末に直面する。
2. 『ユージュアル・サスペクツ』(ブライアン・シンガー監督)

どんでん返しの結末が印象的な映画として有名なこの作品は、映画の文法そのもので観客を嘲笑する。サンペドロの埠頭で起こった爆発事故の唯一の生存者であるヴァーバル・キント(ケヴィン・スペイシー扮)が警察に事故当時の状況を証言するのが主な内容だ。足を引きずり片腕を使えない障害者であるヴァーバルは、自身が経験したヴィラン、カイザー・ソゼの伝説的恐怖を生々しく描写する。彼は緻密に絡み合った物語を解きほぐし、観客と捜査官の双方を混乱に陥れる。すべての証言を終え無罪で釈放されたヴァーバルが、足を引きずりながら警察署を去ると、捜査官たちは彼の証言が虚構であった可能性に気づき、続く衝撃的な展開が始まる。
3. 『シックス・センス』(M・ナイト・シャマラン監督)

M・ナイト・シャマラン監督の初期作であるこの心理スリラーは、単なるホラー映画を超えた感動的な物語に仕上がっており、その頂点には予想外の結末が配置されている。少年コール(ハーレイ・ジョエル・オスメント扮)は「死んだ人が見える」と告げ、精神科医マルコム・クロウ(ブルース・ウィリス扮)に助けを求める。コールとマルコムは幽霊の存在について語り合い、お互いに依存しながら成長する。この映画は、マルコムが妻との疎遠な関係や自身の生活の厳しさに直面する様子を描きつつ、コールの治療に没頭する過程を浮き彫りにする。映画の最後、コールは幽霊の存在を受け入れ、そのメッセージを伝える能力でマルコムを助け、マルコムはコールの助言に従い妻に近づく。しかしその瞬間、マルコムの妻は彼を無視し寝たふりをする。妻の手から落ちた結婚指輪を目にし、マルコムは、自らがコールと出会った後、既に銃で撃たれて死んだ幽霊であった事実に気づく。観客は映画全体を再考せざるを得ない衝撃を経験する。
4. 『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督)

デヴィッド・フィンチャー監督がチャック・パラニュークの同名小説を原作に制作したこの映画は、1990年代後半の消費主義と現代人の無気力を鋭く批判する。不眠症に苦しむ匿名の「僕」(エドワード・ノートン扮)は、奔放な石鹸販売員タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット扮)と出会い、秘密の私設格闘クラブ「ファイト・クラブ」を結成する。暴力と反社会的行動による解放感に浸る彼らの集まりは、次第に巨大なテロ組織「プロジェクト・メイヘム」へと拡大する。「僕」は次第に、自らを制御できなくなったタイラーの存在に恐怖を感じ、彼を止めようとする。しかし、タイラーは忽然と消え、「僕」は自分がタイラーの行ったすべての行為の張本人であったことを知る。タイラーは実は、自分が生み出したもう一つの自我、すなわち多重人格の表れであった。観客は、「僕」とタイラーが共に登場した全シーンを再解釈せざるを得なくなる。
5. 『セブン』(デヴィッド・フィンチャー監督)

デヴィッド・フィンチャー監督の代表作の一つであるこのネオ・ノワール・スリラーは、『七つの大罪』をモチーフにした連続殺人犯ジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー扮)を追う二人の刑事、ベテランのウィリアム・サマセット(モーガン・フリーマン扮)と血気盛んなデビッド・ミルズ(ブラッド・ピット扮)の姿を描く。映画内に漂う陰鬱な雨の都市の雰囲気は人間性の堕落を象徴し、残酷な殺人事件は観客に不快感を与える。ジョン・ドゥは自首するが、最後の二つの大罪である「嫉妬」と「怒り」を完成させるための計画を既に立てていた。荒涼とした砂漠の中、ジョン・ドゥは衝撃的な事実をミルズに告白する。最後の犠牲者が、ミルズの妻トレイシー(グウィネス・パルトロー扮)であり、彼女が妊娠中であったという事実だ。嫉妬に駆られたジョン・ドゥはトレイシーを殺害し、その遺体を箱に詰めてミルズに届ける。妻の死に怒りを覚えたミルズは、遂にジョン・ドゥを殺すことで、ジョン・ドゥが計画した最後の大罪「怒り」を自ら実現し、完璧な殺人計画に終止符を打つ。この悲劇的かつ苦い結末は、従来のハリウッド的「正義勝利の公式」を完全に覆すものである。
6. 『アザーズ』(アレハンドロ・アメナーバル監督)

第二次世界大戦直後、ジャージー島の片隅に位置する邸宅に住むグレース(ニコール・キッドマン扮)は、日光に極度に弱い希少疾患を患う二人の子供とともに暮らしている。子供たちを守るため、彼女は家中のカーテンを閉ざし、外部との接触を極力避けている。ところが、邸宅に三人の新しい使用人が加わったことで、家の中に奇妙な気配が漂い始める。グレースは邸宅に「他の人々」(幽霊)が存在すると信じ、彼らを追い出そうと奮闘する。子供たちも見えない存在と接触し、グレースは恐怖と疑念に苛まれヒステリックな行動に走る。結局、グレースは家を訪れた霊媒を通じ、隠された真実を知ることになる。それは、邸宅に漂っていた「他の人々」とは、実はこの家に住む新たな家族であり、グレースと彼女の子供たち、そして三人の使用人が閉じ込められた「幽霊」に過ぎなかったという事実である。グレースは子供たちを病から守り切れず、狂気に支配された末、自ら子供たちを殺した後に自殺し、その後も永劫に家に留まり続けることとなった。
7. 『ソウ』(ジェームズ・ワン監督)

「ジグソウ」という名の連続殺人犯が、犠牲者たちに残酷な「ゲーム」を強いるという内容のこの作品は、一見スラッシャー・ホラーの定番に沿っているようで、最後の衝撃はスリラーのどんでん返し映画と通じるものがある。ある男アダム(リー・ワネル扮)と医師ゴードン(ケイリー・エルウィス扮)は、鎖で繋がれた状態で恐怖の地下室で目を覚ます。彼らは、中に置かれた死体、拳銃、そしてジグソウが残したテープを通して、お互いに殺し合うか脱出するかを迫られる残酷なゲームに巻き込まれていたことを知る。映画は、彼らがこの過酷な試練に必死に対抗する様子を緊迫感たっぷりに描写する。ゴードンは家族を救うため、自らの足をノコギリで切断して脱出し、アダムは絶望の中、一人取り残される。ジグソウを追う刑事たちは彼を捕まえられず、そのゲームに巻き込まれる危機に直面する。絶望に沈むアダムの前で、地下室中央に倒れていた死体がゆっくりと体を起こす。実はその死体は、アダムとゴードンが最初に地下室に閉じ込められた時からそこに居た、他ならぬジグソウ本人であった。ジグソウはアダムに向かって「ゲームオーバー」と告げ、鉄扉を閉めて生き残ったアダムを永遠に暗闇に閉じ込め、悠然とその姿を消す。かの衝撃的な結末は、その後『ソウ』フランチャイズの壮大な始動作となった。
衝撃的な結末を迎える映画は、観客に単なる驚きを提供するのみならず、人生と死、現実と幻想、善と悪の境界について深い問いを投げかける。映画鑑賞中に感じた安堵や希望が、最後の一瞬で崩れ去る経験こそが、これらの作品が時代を超えて傑作と称される理由の一つである。物語が最も残酷などんでん返しの結末で幕を閉じるとき、その破壊的余韻は観客の意識に消えぬ痕跡として刻まれる。
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